徒然なるままに

好きなことを、好きなように。願わくば、同じ思いを持ったあなたに届きますように。

自己肯定感と生きる意味

人には誰しも歪なところがある。
家庭だったり、社会だったり、人間が二人以上集まれば、そこにはストレスが生まれる。
一方で、それが人生の楽しみだったりもする。

 

今回は私の歪なところのお話。
同じように生きづらさに悩んでいる人、親との関係に悩む若人、これから親になろうとしている人、そんな人たちに届けば嬉しく思います。

 

 
私は人との距離の測り方がわからない。

必要以上に気を遣いすぎて慇懃無礼になってしまったり、逆に急に距離を詰めて引かれることもしばしば。
トピックがあればとことん話せるのに、雑談はどうしていいかわからない。
気になることがあれば突き詰めなければ気が済まないし、持っている情報は必要以上に話してしまう。


どちらかといえば発達障害ではASD気質に近いだろうが、幼いころはじっとしていられなかったのでADHDの側面もあったのだろう。
最近知ったことだが、ASDADHDは併発する可能性が元々高いらしく、ADHDの多動の部分については成長とともに落ち着いてくることが多いらしい。
そもそも、「発達障害」というのはスペクトラム(連続体)といわれるように、グラデーションであり、また一人として同じ特性の人はいない。

発達障害というのは、その特性が強すぎて社会生活に支障が出ている状態のことであり、グレーゾーンでは認定は下りない。

 

実を言えば、数年前鬱を患い、その過程で当時の妻の勧めもあり(勧めというか、罵倒ではあったが)、IQの測定をした。
発達の度合いを測るもので、WAIS-Ⅲと呼ばれるものだ。
子ども向けにはWISCという検査らしい。
断わっておくと、この結果のみで発達障害かどうかがわかるものではなく、その傾向があるという一つの指標でしかなく、認定は専門医の総合的な診断によるので注意してほしい。

 

IQというのは、動作性IQ(PIQ、先天的、視覚優位)と言語性IQ(VIQ、後天的、聴覚優位)という二つの指標の総合で表される。
私はPIQ101、VIQ120、総合でIQ113という結果だった。

髪型や物の配置などの変化に気づきにくい反面、声音など音声的刺激や声の聴き分けが得意なのはそういったことかと妙に納得した。


IQは100を標準とするので、私はいずれの指標でも標準を上回っていることになる。
安堵して、検査結果を伝える大学病院の医師に「それじゃあ発達障害ではないんですね」と尋ねた。「ストレスを受けたときのあなたの取り乱し方は大人としておかしい。検査をして」と言った妻への反発から出た言葉だが、今となっては適切な表現ではなかったと思っている。

上記のように、人はだれしも発達障害的側面を持っており、グラデーションで現れる独自の特性をそれぞれが向き合って生きているのだと知った後は、マジョリティ(とされる)側にいようとした自分は浅はかだった。

 

医師は、こう答えた。
発達障害というのは、社会生活を営む上で支障があり、認定することで支援を受けるなど生きやすくなるためのものです。あなたは、どちらのIQも標準以上ですし、事前の問診やこうしてお話しするなかでも問題を確認できませんので、そういった意味では認定の対象とはなりません。」
「しかし、動作性と言語性のIQが15ポイント以上離れていると、きっとこれまでとても生きづらかったと思います。できることとできないことの差が激しく、自分ができると思っていることと実際に処理できる速度に乖離があるので、周囲からの評価もギャップがあったでしょう。処理能力にかかわる動作性IQというのは先天的なもので、幼いころであれば療育等で多少の改善は見られますが、それでも大きく変化するものではありません。まして、大人になるまでその状態で生活されていたので、今から動作性IQを高めるのは難しいです。大切なのは、低いほうのIQに自己認識をそろえること。自分という車の特性を知り、アンバランスな能力の運転方法を覚えることです。むしろ、今の年齢でそこに気づけたのは幸運でした。」

 

帰りの車の中では頭が真っ白だった。
普段から感じていた閉塞感や生きづらさは、世間の人々皆が感じているものだと思っていたからこそ頑張れていた。けれど、それが違ったという事実は、なんだか地面が底から抜けていくような感覚だった。

隣では妻が嬉しそうにしている。自分の考えは間違っていなかったのだと、後は前を向くだけだから対策もわかったし大丈夫だね、と。

 

私は幼いころのことを思い出していた。

 

小さい頃から、口が達者な子どもだった。
話し始めるのも早かったというし、あまりにおしゃべりなので、「お前は口から生まれてきたのだ」と笑われたりもした。
「男があまりおしゃべりなのはみっともない」とたしなめられたりもした。
少しませた子どもでもあった。


小学校の最初の担任は、とても真面目な新人の先生だった。
道徳の授業で、「擬人化された動物たちが嘘をついて失敗する」という話を読んで、締めに「それじゃあ、嘘をついてもいいと思うひと〜?」とみんなに問いかけた。

彼女の理想は満場一致で「嘘をつかないほうがいい」だったのだろう。

私一人だけ「ついていい嘘もあると思う」と挙手したら、後日親を召喚された。

「お子さんに嘘をついてもいいと教えてるんですか?この子が将来どんな大人になるか心配です」
おしゃべりで落ち着きのない子どもだったから、余計に心配されたんだろう。
私としては、人のためにつく優しい嘘なら問題ないという考えだったけれど、一生懸命な先生に責められて、親はPHP新書の子育て関連本を買い漁っていた。

もちろんそれだけが原因じゃないだろうが、多動が落ち着いてきた高学年の頃、叔母から「あの頃のお母さんはノイローゼになりそうだった」と言われたのをとてもよく覚えている。
今思うと、ありのままの自分でいては悲しませるから、良い子になろうとしたんだと思う。
本当は受け入れて抱きしめて欲しかった。

 

先生は一生懸命だったけれど、残念ながら私とは合わなかった。
悪目立ちをする方だったから、帰りの会ではよく女子から糾弾されていた。
罰として居残りの掃除をした後に、教室で真正面から私の肩を掴んで涙目で名前を呼ぶ先生の顔がずっと残っている。
教師は人に影響を与える素晴らしい仕事だと今でも思う。
けれどその責任の重さに、周囲からいくら勧められても、私はついぞ目指すことはなかった。

 

2年生の担任は、一転してフレンドリーな先生だった。
それがいいことなのかどうかはわからないけれど、保健室に行きがちだった私を見舞って、一緒に踊ってくれたりして、いろんな先生がいるのだと幾分心が軽くなった。

 

でも基本的に融通はきかないものだから、6年生になっても運営委員会(生徒会のようなもの)で教師の不興を買って「そんなんだったらもう帰れ!」と言われた。
帰ろうとしたら、「本当に帰る奴があるか!」とさらに怒られた。
「自分が言ったくせに」と解せなかった。
帰ろうとした私は当時運営委員長だったから、彼女の怒りもひとしおだった。

 

先日実家の掃除をしたら、二重丸ばかりの通知表や作文コンクールや水泳の表彰状などが出てきた。
私はいわゆる「真面目ないい子」で、勉強は高校まで苦労しなかった。

でもそれが社会人として優れてるというわけでは決してない。
上記のように、処理能力が低くて落ち込むことは数えきれない。
厳しい言い方をするならば、私は「学歴ばかりで仕事のできない使えないやつ」の典型だ。


最近はHSP(Highly Sensitive Person、過敏な人)という言葉をネットで目にするようになった。
その一年ほど前に書店で関連本を購入し、チェックリストがほとんど当てはまり、相手の真意が読み取りづらいASDよりも必要以上に汲み取りすぎてしまうHSPなのだと一人安堵したこともあった。
その後、HSPは医学的に定義があるものではなく、医療機関の受診や公的支援を必要としている人が「自分はHSPだったんだ」と独自に納得することで、必要なサポートが受けられなくなることを危惧していると担当のカウンセラーに教わったので、今のところ用いるのが難しい概念だと理解している。
ただ、そういった「刺激に反応しやすい人」というのがいるのだろうという理解は彼とも共有している。

 

ありがたいことに、鬱の治療とHSPの対策には共通するものが多く、自分がどちらであるかはあまり問題ではなかった。
必要に応じて身体的症状を緩和するために一定期間服薬を継続すること、それに並行して認知行動療法などの「世界の捉え方」を変えることだ。
その過程で「自己肯定感」を養う必要がある。

 

私は、学生のうちは「人よりできる」ことが自信になっていた。
さいころから叱られ続けた自分は、何かが優れていることで、もしくは、他者を自分より尊重することでこの世界に存在してもいいのだと思い込んでいた。

けれど、「自己肯定感」というのは、何かができる、できないではなく、できてもできなくても、自分には価値があると考えることだった。

ここ数年、そんな考え方に触れてきたら、生きるのが少し楽になった。
自分より周囲の方が価値があるから頑張り続けなければいけないのではなくて、自分も他人も等しく価値があると思ったら、深く呼吸ができるようになった。
仏陀が言ったとされる、「天上天下唯我独尊」というのは今でいう「世界に一つだけの花」なのだと知った。


私を嫌いな人はたくさんいるかもしれないけれど、私は今の在り方が嫌いじゃなくなった。
だから、これからも自分を好きであるために、ありたい自分でいたいと思う。

自分の人生に責任を負えるのは、自分しかいないのだ。

 

中学に上がったあたりから、「生きる意味」について考えていた。
自分には価値がないと思っていたから。
親に恩を返すため?
人の役に立つため?
社会の一員となるため?
子孫を残すため?
ずっと考えていたけれど、答えは出なかった。

現時点での答えは、「自分が幸せになるため」だ。
自分を大切にしないと、人に優しくなんかできない。
自分の価値を認めていないんだから、人の価値も本当のところはわかっていなかった。

 

幼い頃から言われてきた「人にされて嫌なことを人にしない」の意味も不可解だった。
もちろん、人の嫌がることなんかしなかったけれど、なぜしてはいけないのかの説明ができなかった。「自分が得をするならいいじゃん」と言われたら、反論できないなと。

 

人の嫌がることをしないのは、その人のためではなく、何より自分自身のため。
自分のルールから外れた振る舞いをしていたら、自分を好きになれなくて幸せになれない。
子どもたちにそう伝えることが、今の目標だったりする。

 

親とは今も昔もとても仲がいい。
よく話をするし、たくさん悲しませたことを後悔もしている。

悩んでいた母を見かねて、祖母が「いつまでもそのままの子どもはいないから大丈夫」と励ましたという。
「あなたがいい子になって良かった。先生に見せてやりたい」と母は言った。

でも本当は、あのまま育ったとしても、「そのままでいいんだよ」と受け入れて欲しかった。

厳しく叱られたことを冗談交じりに責めると「あの頃は私も大変だったんだから」と拗ねられる。
うん、私も親になったから、少しは苦労もわかるよ。感情的にもなるよね。
でも一方で、我が子を想うと、なにがなんでも抱きしめたいって思うよ。

今は離婚して、面会日にしか会えなくて、恋しくて余裕があるからそう思うのかもしれないけれど、怒鳴ったり叩いたりしなくても、ちゃんと伝わるよ。

 

私は怒鳴り声や不機嫌なオーラに反応しやすくてパニックになりがちだから、子どもたちには落ち着いて話したいと思ってる。

子どもって本当に成長が早くて、予想以上にいろんなことをわかってる。
逆に教えられることもしばしば。
一個人なんだな、と思う。

親として、これからどんな言葉をかけていけるんだろう。

 

「あんたには苦労させられた」と親はよく言う。
けれど、私には生きる意味を思いわずらう思春期はあっても反抗期はなかった。
そしてそれを「親子仲がいい証拠」なのだと誇りに思ってもいた。
反抗期というのは自我が確立される過程だ。
どんなに信頼していても、親と子は別個の人間なのだ。
親だからといって100%好きな必要はなくて、苦手な部分や話したくない時があったっていい。
反抗期は、自分が一個の人間として巣立つのに必要なことなのだと、今更ながら実感している。

 

ものに当たったりはしないけれど、許せないことは嫌な顔されてもちゃんと伝えるというささやかな(そしてとても遅めの)反抗期を迎えながら、私は次の面会日に子どもたちがどんな話を聞かせてくれるかをとても楽しみにしている。